『獄友』来るべきもの
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    ポレポレ東中野にて絶賛公開中のドキュメンタリー映画、『獄友』を観て来ました。

    『SAYAMA みえない手錠をはずすまで』、『袴田巌 夢の間の世の中』に続く、金聖雄監督のシリーズ第3弾です。

    石川一雄さんと袴田巌さんに加え、今回は「布川事件」の桜井昌司さんと杉山卓男さん、「足利事件」の菅谷利和さんたちにもスポットが当てられます。


    映画はフリージャズのような息を飲むドラムソロで幕を開け、トランペットやベースやピアノやテルミン!などのやはりスピリチュアルな素晴らしいソロ演奏が、冤罪被害者である登場人物それぞれのシークエンスのBGMとして、当時の事件のモノクロの記録映像や写真と相まって緊張感を生みます。


    劇中の音楽を聴いていてふと、3年前に亡くなったオーネット・コールマンという音楽家のことを思い出しました。

    フリージャズなんて言うとちょっと取っ付き難いイメージがあるかも知れません。突き詰めていくと正直音楽だかなんだかよくわからなくなって、現代音楽なんかとの境界もはっきりしない部分はあるし、もとより音楽が思想云々を纏いだすと極端に詰まらなくなったりもします。

    だけどこのオーネット・コールマンらが発明したいわゆるフリージャズと呼ばれる音楽の、メロディ、コード、リズムなど西洋音楽の制約や構造からの脱却であったり、或いは当時の黒人ミュージシャンたちの人種差別への抵抗や解放への切なる願いといった表現の下地となるもの、特に南部出身のオーネットはこの問題に対する意識が強かったのかも知れませんが、そういったこの種の音楽が持つ背景や文脈、自由というものに対する姿勢が、この映画の物語のテーマと重なるところがあって、今回の作品のこの音楽的アプローチがなんだか勝手に腑に落ちたりもします。


    物語に話を戻すと、やはり皆、奪われて失われた時間に対する苦悩や葛藤をそれぞれ抱えながらも、人並みの社会生活の中で手探りで自由を求めて生きていく姿が描かれます。

    石川さんは毎日体を鍛えながら自身の無実を訴え続け、袴田さんは拘禁症と闘いながら少しずつ現実世界へと希望へと歩み出し、桜井さんは自ら作詞作曲した曲を涙しながら高らかに歌い、菅谷さんは生まれ育った街に戻り孤独と向き合いながらも法制度や権力に声を上げます。

    皆それぞれ違う街に住み新たな人生を送っているけれど、誕生日を祝いに駆けつけたり、コンサートを聴きに駆けつけたり、体調を崩したら見舞いに駆けつけたりと、情深い絆で支え合い、新たな自由やこれからの幸せを共有していこうとしている様に見えます。

    そんな彼らは皆共通して、クシャっとした屈託のない笑顔を時折みせます。

    やましさや後ろめたさなど微塵もないけれど、どこかある種の照れが見え隠れするようなそんなクシャっとした人間味溢れる笑顔がなんだか妙にこちらを惹きつけます。


    そしてエンドロールの素晴らしい大合唱大団円。映画ってやっぱりイイなぁと思わせてくれます。


    劇場を出る時、あまり若者の姿を見かけなかったのが少し気になりました。

    死刑制度と冤罪の問題、差別意識と同和問題の歴史、またメディアリテラシーについて、あらゆるメディアやSNSなどで拡散される膨大な情報の渦の中で、飲み込まれる脆弱な個人の主観の危うさ、その拠りどころなどなど、本当に様々な社会問題ついて、そしてそれに対峙する個人について考えるきっかけになるので、もっともっと10代、20代、30代の若い世代が劇場に足を運んで観るべき映画だと思いました。



    文・神田

    | 映画・本 | 23:11 | comments(0) | - |
    最近、「〜とも」がはやってます!
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       さっこん、「〜とも」というのが、はやっているんでしょうか?ふたつご紹介します。

       一つは、映画「獄友(ごくとも)」です。

       

       

       わたしの畏友、ドキュメンタリー映画監督、金聖雄(キム・ソンウン)氏はつねづね社会的弱者に寄り添う、やさしい視線でドキュメンタリーを撮ってきた人で、一貫した姿勢に感服しております。キム氏は、このところ、ずっと冤罪にこだわって映像を作ってきました。「SAYAMA見えない手錠をはずすまで (狭山事件)」 「袴田巌 夢の間の世の中 (袴田事件)」に続く、冤罪三部作というべき、三作目「獄友」が完成しました。冤罪を訴え続ける5人の当事者たちの、記録映画です。 

       だからといって、まゆの根を寄せてみる、肩の凝る映画ではありません。笑いのある温かい視線の、支援の映画です。映画は、ポレポレ東中野で3月24日から公開されます。ぜひ、ご覧になってください。

       チケットは 042-316-5567 キムーンフィルムに、お問い合わせください。

       

       

       もう一つは「ネコトモ」展です。

       あす2/22ネコの日から、2/28までの一週間のみです。リベストギャラリー 吉祥寺東町 0422-22-6615です。漫画家「いしかわじゅん」氏が、猫好きアーチスト13人に声をかけて、平面から立体まで集めた、楽しい展示です。わたしの注目は、南クウクウさん、ミロコマチコさんです。

       ネコ好きは、ぜひ、お出かけください。

       

       

      文責・藤本邦彦

       

      | 映画・本 | 22:52 | comments(0) | - |
      ヒゲをそろうが、そるまいが。
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         ふと、気になったことがあります。一部の男たちはなぜ、ヒゲを生やしているのでしょうか?

         たいていの男性は、毎朝きちんとヒゲを剃って、外に行かれることでしょう。先日床屋さんで聞いたら、ヒゲがあるのは感覚として10%以下でしょうといわれました。ところが私の周囲は、恥ずかしげもなくヒゲを生やした連中ばかりなのです。

         うちの男性スタッフの神田も、名和田もヒゲ面。女性スタッフの、小川、森井の連れ合いもヒゲ面です。友人の紺野氏、キム氏、高部氏、佐藤氏も、京都の林ちあんも、カツ坊氏も、うちのネコの金坊もヒゲ面です。しかも、さっき鏡を見ましたら、私もヒゲ面なのでありました。なんということでしょう!!

         

         

         ヒゲというもの、時代によって、はやりすたりがあった様子です。日本では、戦国武将は、強さを強調するために、こぞってヒゲを蓄えたそうです。ところが江戸時代は、ヒゲは反社会的で厳禁とされた。明治になると、政治家たちが西洋のまねでみな生やしだした。昭和のサラリーマンもヒゲはご法度でした。記憶に残るヒゲは、田中角栄や、ドリフのカトちゃんなんかでしょうか。

         そもそも、日本人はそれほどヒゲが濃くない。世界では、宗教的な理由からカミソリを使わない、特にイスラムやユダヤ教の人たちは、立派なヒゲを蓄えていますね。先日イスラエルのサッカーチームを見たら、全員同じひげ面で見分けがつかなかった。

         スペインの産んだ天才画家に、ピカソとダリがいます。ピカソが二十数年早いけど、ほぼ同時代を生きました。ピカソはスキンヘッドで、あごもつるつるです。一方のダリは、黒髪の細面で、眼をめいっぱいに見開き、びよーんと細長く上向きに固められた口ひげが、最大のシンボルでした。

         画業は、ピカソは実に多彩、技法も刻々と変化し、しかもいつも超売れっ子でした。ダリは、幻想的でシュールな超写実技法でした。美術界のエンターテイメントがピカソで、ダリはかなり職人的な仕事だったように思います。・

         お目にかかってないのでわからないけれど、ピカソは、たいへん社交的な商売人でもあったのに対し、ダリは、大変人として有名でした。ダリの風貌も、まさに、自身を売り出すためのシンボルとして意図的に磨き上げられたもので、ヒゲと大きな目、高い鼻を最大の武器にしたのです。数知れない奇行と風貌のわりに、実はとてもシャイで、神経の行き届いた常識人だったともいわれます。艶福家ピカソに対し、ダリは愛妻ガラの一筋でした。

         児童文学者、今江祥智さんの「ひげのあるおやじたち」を読みました。江戸時代、ある藩の圧政と、城主の息子の横暴に、最下層の名もなき「ひげおやじたち」が結束して、知恵と工夫と体力で立ち向かい、ひっくり返す痛快な物語です。ところが、差別表現があるとクレームがついて、重版時に回収、絶版になってしまいました。私の読む限り、この決断はちょっと忖度が過ぎたのではないかと思いますが。その後数十年を経て、「ひげがあろうがなかろうが」のタイトルで、書き直し新作の表題作と旧編の合本が、解放出版社から出ています。新作もテンポのいい言葉運びで読ませますが、旧作のほうが物語のまとまりがあり面白いと思います。新作は、少年と、その父親のヒゲおやじが主人公です。ラストは、まだヒゲのない少年が、亡くなった親父さんの遺志を継いで権力に立ち向かう決意を固める、その意味を込めてたぶん「ひげがあろうがなかろうが」というタイトルなんだろうと思います。ただ、レジスタンスの主人公がちょっと超人過ぎて現実味が乏しく、冗長で飽きてしまいます。まあ新旧どちらの「ヒゲおやじ」たちいずれも、反権力、反骨で、好き放題ヒゲを生やしているのです。

         私がいつからヒゲを生やしたんだろうと、つらつら思い返してみました。私が、サラリーマンをやめて、社長と二人だけの、会社ともいえないような会社に移った30年前。ヒゲを生やしてみればと言われたのがきっかけでした。いちどやってしまうと、無精者にはとても楽です。

         数人に、なぜヒゲを生やしているのか取材してみました。スタッフの名和田は、当時勤めていた学校に抗議の意味で、生やしだしたといいました。佐藤さんは、仕事で役所に交渉に行くのに、なめられないようにというのが、きっかけだったそうです。神田は、いつの間にかだったそうです。カミソリに弱い、無精できるという理由も多いです。

         どうやら、ヒゲを生やす理由は、組織に縛られていない自由人という表明。わしらは他人とちょっと風体が違っているけれど、大丈夫!安全ですよって、意思表示のような気がします。世の中のヒゲおやじは見た目と違い、意外と内気で気弱、シャイで優しいことが多いのです。

         このようなわれわれですが、どうぞ、変わらぬおひきたてのほどを、よろしくお願いいたします。

         

         

        文責・藤本邦彦

        | 映画・本 | 10:25 | comments(0) | - |
        桜の森の満開の下
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           この季節になると、読み返す小説があります。「桜の森の満開の下」坂口安吾・作です。安吾は、太宰治のライバルとして並び称された作家で、「堕落論」とともに、代表作です。あらすじは、こうです。

           「むかし、鈴鹿峠に住み着いた、山賊がいました。ずいぶんむごたらしい男で、街道へでて情容赦なく着物をはぎ人の命も断ったのです。

           何一つ恐れるもののない男が、唯一怖かったものは、鈴鹿の山の中、桜の花の満開の森でした。花というものは怖しいものだな、なんだか厭なものだ、そういう風に腹の中でつぶやいていました。花の下では風がないのにゴウゴウ風が鳴っているような気がしました。そのくせ風がちっともなく、一つも物音がありません。自分の姿と足音ばかりで、それがひっそり冷めたいそして動かない風の中につつまれていました。花びらがぽそぽそ散るように魂が散っていのちがだんだん衰えて行くように思われます。それで目をつぶって何か叫んで逃げたくなりますが、目をつぶると桜の木にぶつかるので目をつぶるわけにも行きませんから、一そう気違いになるのでした。

           ある日、男が八人目の女房にすべく、亭主を切り殺して奪ってきた女は、たいそう美しかった。

            女はたいへんわがままで、贅沢好みで、残忍な性格でした。男の家に着いたとたん、前の六人の女房をすべて切り殺させ、一番醜い、びっこの女房だけは、女中で残しました。女のたっての希望で、三人は山を下りて、都で暮らすことになりました。男は、女に命じられるがまま、夜ごと金持ちの家に強盗に押し入って、家財と住人の生首を持ち帰ります。女が楽しんだのは、天井から無数につるした生首を使う、ごっこ遊びでした。

            男は、都の生活になじめず嫌気がさします。山に帰ろうとします。女の欲望は限りなく、満足するということがないのです。

           男は、女をおぶって、桜の花の満開の森にさしかかります。すると、女が鬼だったことに気が付くのです。鬼はぐいぐいと、男の首を絞めます。桜の森の真ん中で、男は、振り落とすと夢中で、鬼を絞め殺します。屍は、元の美しい女でした。女の顔に触れようとすると、女は掻き消え、花びらが残るばかりでした。女の姿は掻き消えてただ幾つかの花びらになっていました。そして、その花びらを掻き分けようとした彼の手も彼の身体も延した時にはもはや消えていました。あとに花びらと、冷めたい虚空がはりつめているばかりでした」

           もし山の中に、桜の森があったなら、夜の満月の下で、はらはらと音もなく散る下にいたら、限りなく孤独かもしれません。桜の幹は真っ黒く、花びらは地面を白く埋め尽くしていく。

           この五年後に書かれた「夜長姫と耳男」も、中世を舞台にした説話文学の傑作です。この「美しい女」も「夜長姫」も、とてつもないむごたらしさと、狂気を持っていて、主人公の男は翻弄されるのです。彼女たちは、残酷な芸術の女神なのかもしれません。男たちは、芸術の求道者を象徴しているのかもしれない。

           どちらも、とても濃密な物語です。何度読み返しても、新鮮です。新鮮なのは、情けないことに、いまだ解題できていないからでしょう。

           おすすめの短編小説です。

           

          文責・藤本邦彦

          | 映画・本 | 18:34 | comments(5) | - |
          児童文学の庭へ
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             「おじさんの家は、古いお屋敷を改築したアパートだ。二階の窓から見える景色は、都会のごみごみとした屋根ばかりで、トムはすぐに退屈してしまった。こんなところで、夏休みをずっと過ごすなんて!一階の広いロビーの壁には、古くてものすごく大きな振り子時計が時を刻んでいる。時間は正確なのに、鐘は気まぐれな数を打つ。真夜中、ゆめうつつの中で、鐘は確かに13回打った。眠れないトムはそっと部屋を抜け出してロビーに降りた。
             さびついた裏庭のドアを開けると、なんと、広大ですばらしい庭園が月夜に広がっているではないか。トムは夜な夜な、秘密の庭を探索し、少女ハティと友達になる。しかしここは、時間軸と存在がずれた空間で、トムにしか入り込めない秘密の庭だったのだ」
              以上は「トムは真夜中の庭で」 フィリパ・ピアス作 高杉一郎訳 岩波書店 のあらすじです。1958年に発表された、イギリス女流作家の児童文学作品。SF的な、R.A.ハインラインを連想させる時間構成が緻密で、ぐいぐい読ませます。読み始めたら止まらなくなってしまって、なにか胃のあたりにくぅーっとくる感覚が。これは何だろうって思い返すと、いわゆる“胸きゅん
            ”の感覚だったんですね。いいトシをしたおやぢが、お恥ずかしい。



             児童文学を、なんでいまさらといわれそうですね。「子どもの本の森へ」 河合隼雄と長田弘の対談集 岩波書店を人に勧められたのです。河合さんは、ユング派の心理学者、長田さんは詩人ですね。本書では、絵本と児童文学が多数紹介されていて、特に長田さんの幅広い読書に驚ろかされます。
             ここで紹介されている児童文学を、数冊読んでみたのです。どれも大当りでした。なかでも、とりわけ面白かったのが、この一冊です。ぜひ、お勧めします。
             子供の本だなんて、バカにしてはいけません。児童文学はじつに想像力豊かで、濃密な世界なのです。
             文責・藤本邦彦

             

            | 映画・本 | 19:54 | comments(0) | - |
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